栃木県那須郡那珂川町 浄土真宗本願寺派 常圓寺のホームページへようこそ。

◇ 常圓寺の沿革

当寺は浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)に属する。 開基年代は不詳であるが、当初は天台宗の寺院であったと伝えられる。

●保元2年(1157)
照證法印成善阿闍梨(俗称は那須太郎資隆の弟、那須次郎資房)が片平字竹ノ内に再興。

●文治4年(1189)
片平城主八郎義隆(那須与一宗隆の兄)が亡父資隆(法号佛光洞照)の法要を営む。

●建久元年(1190)
後鳥羽天皇の時代に後白河法皇より勅願を賜り、佛光山東照院と号する。

●承元4年(1210)
成善阿闍梨が亡くなり、無住の寺院となる。

●建暦3年(1213)
片平城主義隆が、蛇身済度(別記)の報謝として親鸞聖人へ当寺を寄進附属する。

●嘉永2年(1226)
現在の地である片平字木之下に寺基を移転する。

●安貞2年(1228)
聖人の高弟である高田の覚信房(俗称は常陸源氏佐竹冠者、昌義の嫡男忠義の甥、太田四郎義照。関東六老僧との説もある)が聖人より住持として遣わされる。覚信房は、聖人が京都へ上洛の後にはご教化を仰ぎに上洛し、五条西洞院の聖人の禅房において、建長7年(1255)に75歳で往生したという。息子の念性は父の遺骨を拾い、当寺境内に埋葬した。その後、当寺第2代念性の時分に、第2代宗主如信上人が大網より上洛の途中に覚信房を偲んで立ち寄られ、その際に寺号を常圓寺と賜る。また、第3代宗主覚如上人がお立ち寄りの際には、覚信房の墓印の赤樫を見て「真宗の印の樫と聞くときは 堅き御法は金剛の信」と詠まれたという。

●天正年間(1573~、第11代宗主顕如上人の時代)
本願寺と織田信長との10年余に亘る戦い(石山合戦)に、当寺第8代玄性を筆頭に門徒衆10名が参戦して帰郷。(参戦した門徒衆の子孫も現在繁栄している)

●寛永14年(1636)
本堂および諸堂が火災のため全焼。

●正保2年(1645)
仮御堂を建立。

●明治23年(1891)
当寺第24代竹寿のときに、現本堂を再建。

●昭和13年(1939)7月4日
本願寺第23代門主勝如上人が御下向、御巡教。

なお、念性以降の歴代住職は、佐竹家血脈相承により今日に至る。

◇ お経塚(親鸞聖人御教化の地、常圓寺飛地境内)伝説

弥惣という者の娘おときは、邪険・嫉妬の思いを起こし、神田城の南にある川の淵に身を投げた。すると、おときは蛇身となり、身体を種々に変幻して往来を妨げたので、行き来する人もなかったという。時の片平城主義隆は、諸宗の名僧や修験者を集めて事態の収拾を試みたが、なお盛んに人々を悩ませていた。そのような折、親鸞聖人が当国を通られると聞き、聖人をお招きして事情を説明したところ、「小石を拾い集めておきなさい」と仰った。それを受けて城主義隆は仮小屋をしつらえ、そこに小石を集めて置いた。しばらくして聖人は仮小屋に来られ、一日一夜の間に一石に一字ずつ「浄土三部経」(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を書き写し、法会を設けてお経塚を築かれた。その夜、城主義隆と弥惣のもとに、夢ともなく幻ともなくおときが麗しい姿で現れて、舞いながら「この度、貴き名僧のご教化により、あさましい邪道の苦を遁れ、浄土往生を遂げることができました」と告げたという。

※蛇身=邪心でよこしまな心をもつという意(寺伝、縁起による)
※昭和7年道路改修工事の折、聖人筆蹟の経石拾数個が出土。